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万里・幽霊と語る [ 学会のあゆみを振り返る ]
 

「しかし それだけではない。---幽霊と語る」

                     山崎万里(母性史研究者)

 

    (初出:アーユルヴェーダ通信『シャーンティ・マールガ』2010年第211

「日本アーユルヴェーダ学会の軌跡を振り返る・追悼 幡井勉先生と歩んだ40年史」)

 

 

〈 アーユルヴェーダと私 〉

1969年にアーユルヴェーダ研究会準備会が発足、1970年『アーユルヴェーダ研究・0号』発行。1971年にアーユルヴェーダ研究会発足、『アーユルヴェーダ研究・1号』発行。この頃は、会員名簿や会費徴収、会誌の校正などを丸山博がやっていました。見るに見かねて手伝い始め、1975年の第1回アーユルヴェーダ研究総会(大阪府河内長野市 観心寺、30名)、1977年の第2回アーユルヴェーダ研究総会(神戸市三田・関西地区大学セミナーハウス、117名)には母・丸山光代を子守に3人の乳幼児を連れての手伝いでした。

1977年から1985年・事務局東京移転までの間は、山内宥厳事務局長のもとで経理実務や毎月の研究会に参加していましたが、東京に事務局が移ってからは名ばかり会員で活動には全く参加していません。

2008年日本アーユルヴェーダ学会・第30回研究総会がテーマ「いのち アーユルヴエーダ 原点と展望」で、丸山博(19091996)の13回忌を記念すること、研究総会30回記念号として『アーユルヴェーダ研究・別冊』が刊行されるなどで、あらためて参加してみて、丸山博のアーユルヴェーダ研究にかけてきた思いやそこから受けたさまざまな影響について思い起こす機会を得ました。これを機に、大阪アーユルヴェーダ研究所の学習会で、短大や社会教育の場での私の健康教育実践についての話題提供の機会を得ました。概ね、私は、マクロビオティックの食生活法とアーユルヴェーダの日常と季節のすごし方、人体を一本の管ととらえ排泄作用を基本とする予防法などをあわせて健康教育実践をおこなっていることを再確認しています。

 

〈 アーユルヴェーダ研究・実践の広がりの中で 〉

2009年9月下旬に幡井勉先生(19182010)から1本の電話をもらいました。

「森永ヒ素ミルク事件についての勉強会をしようと思うので、『復刻版 14年目の訪問----森永ヒ素ミルク中毒追跡調査の記録』(1988年、森永ミルク中毒事後調査の会編、せせらぎ出版)を送って欲しい」とのことでした。すでに紙の本は絶版で、電子本があることを伝えました。また、2009年10月は「森永ヒ素ミルク中毒事件・14年目の訪問」の40周年でシンポジュームが大阪で開かれることを伝えると、「いやーそこまでは。こちらで20人ほどの小さな学習会を持つ予定です」と笑いながら言われました。

幡井先生がこの時期に、森永ヒ素ミルク事件から何を学びかえそうとされていたのかと、亡くなった後に思いめぐらせています。

 幡井先生は、1967年に民族医学研究所(代表・久保全雄)のメンバーとインド伝承医学研究会を設立し、1968年にインド伝承医学アーユルヴェーダ視察団としてインドの実情調査に踏み出した当初から、丸山博とともにありました。

1989年発行の幡井勉著『「インド伝承医学」で肥満・糖尿病が治る』(講談社)のあとがきに、幡井先生は「これまで、日本のアーユルヴェーダ研究は、哲学的傾向が強く、臨床的な、より具体的な活動が少なかったので、この方向での展開を急ぐ必要があると思います。そのため、アーユルヴェーダの病院とまではいかなくても、臨床クリニックの開設や研究所の設置を今後の目標としてやっていきたいと考えています」と書かれています。

幡井先生のギムネマ茶の製品化を初めとするアーユルヴェーダの生薬の紹介と実用化がすすみました。また大阪大学医学部アーユルヴェーダ・ゼミ(1969年)での『Hindu Medicine』の学習段階からともにあった難波恒雄先生(19312004?)は富山医科薬科大学でのクシャラ・スートラの研究、実用化をすすめました。

 そして、その方向が着実に現実のものとなったことは、200911月に日本アーユルヴェーダ学会理事長田澤賢治富山医科薬科大学名誉教授、東京研究総会会長上馬場和夫富山大学和漢医薬学総合研究所客員教授のもとに開かれた、第31回研究総会・テーマ「アーユルヴェーダの伝統と発展-----アーユルヴェーダによる異なるものの統合」の抄録集のプログラムにその広がりを確認できます。西洋医学一辺倒の日本医学界に代替医療、統合医療の展望を切り開いてきました。医学、医療の分野も産婦人科、小児科、皮膚科、歯科などへの広がりが見られます。さらに、ヨーガをはじめ看護、介護、エステでは、アーユルヴェーダ研究実践のすそ野を広げています。

幡井先生は、目標はどこまで果たされたと考えられていたのでしょうか。

 

〈 今、なぜ森永ヒ素ミルク事件なのか? 〉

 1955年夏、西日本で、森永MFドライミルクに乳質安定剤(酸敗防止)として添加された第二燐酸ソーダが粗悪品でヒ素が混入していたことによる乳幼児の中毒事件がおこり、当時の厚生省の発表では患者数12131名、死亡者131名であった。

摂取中止と治療により、急性症状が消退したことで、厚生省委託の(第三者機関)「5人委員会」は「異常なし」「後遺症なし」と判定し、この事件は落着解決したものと思われた。

ところが、13年後に大阪の養護学校で、立つことも座ることもできない13才の重度障害児が乳児期に森永のヒ素ミルクを飲んでいることに気づいた養護教諭が、当時の大阪大学医学部衛生学教授丸山博に相談。「森永ミルク中毒事後調査の会」に結集した養護教諭、保健婦、医学生が大阪府下の被害児の訪問調査を始めた。この68名の被害児の訪問調査の事例報告が「14年目の訪問」で、1969年、被害者に届けると同時に、大阪大学の臨床・社会医学討論会に提出、さらに、第27回日本公衆衛生学会(岡山)に報告された。

この14年間、一部の被害者は岡山県を中心に「森永ミルク中毒の子どもを守る会」に結集し励まし合ってきた。新聞報道、学会発表を機に、「守る会」の第一回全国総会を岡山で開催。被害児の追跡調査、後遺症の究明、完全治療、完全養護、そのための救援機関の設立、行政責任・企業責任の追及などをかかげてねばり強く闘うことを誓った。

乳幼児が被害者の世界で最大の砒素中毒事件、人道的医療機関による精密検査結果、森永製品の不売買運動の世論、「守る会」の親たちの子どもに毒を飲ませたという自責の念によって裁判闘争に発展し、「恒久救済」という世界でも前例のない勝利和解をみた。

1974年、「守る会」、厚生省(当時)、森永乳業の三者会談方式による生涯にわたる救援機関「ひかり協会」が発足。現在、「被害児」は5556才で、全国で健康に生きる活動を続けている。

○急性病の治療を中心に展開されてきた医学が、急性の症状がなくなった後に障害を残したり、発生したりすることに気づかされ、公害病と向き合うことで慢性病の管理や健康の維持向上に医学が取り組むべき課題を突きつけられた。

○医師の権威的な判断と行政処置後の医師や行政の姿勢は、親(看護者)からの訴えに耳を傾けないのと同様に、「事後調査の会」の訪問調査を保健婦、養護教諭が公務として取り組めず、私費で時間外におこなうことを余儀なくし、「14年目の訪問」の学会報告の際にも「臨床医がいない報告」という非難に表れた。

 おそらく、森永ヒ素ミルク事件の発生から現在なお続いている模索の中には、アーユルヴェーダが目指す医学の目標と医療、医療従事者のあり方を学び返す動機と、いのちの素である食べものが工業製品化する幕開けの時代から現在に至る日本の医学、医療の問題点とその背景にある産業、行政のあり方のほとんどが見えているのではないでしょうか。

 

〈 1969年という年 〉

 幡井先生が亡くなる直前まで、丸山博の著書を手元に置いて、丸山博と幡井先生の出合いからを自分の手で綴ろうとされていたようにも聞いています。

大阪大学医学部衛生学教授丸山博の1969年はアーユルヴェ−ダ研究会準備会が発足した年であり、日本公衆衛生学会で「14年目の訪問」を報告した年です。また、「有害食品研究会」を発足させ、第13回経済統計研究会総会、第37回日本統計学会大会を大学紛争のため欠席しています。

さかのぼれば、1968年にはマクロビオティック欧州視察旅行、幡井先生も同行したインド伝承医学研究視察団、1967年「大阪から公害をなくす会」発足。1961年「医学史研究会」発足、1960年「社会医学研究会」発足。

 下って、1971年には「日本有機農業研究会」発足。アーユルヴェーダ研究会からは戦前、戦中にすでに翻訳されていたアーユルヴェーダの外科学の原典である大地原誠玄完訳『スシュルタ本集』を刊行し、日本翻訳者協会出版文化賞を受けています。日本中で、医学医療のあり方を問い直す動きが大学紛争としてまき起こっていた時期です。

  アーユルヴェーダ研究会が取り組んだ、1975年の第1回アーユルヴェーダ国際ゼミナールへの丸山博団長、幡井勉副団長の視察団、そこへの参加者はその後の研究会を牽引していくことになりました。これがインド留学のきっかけになった大阪府立成人病センター勤務の保健婦、稲村ヒロエ(イナムラ・ヒロエ・シャルマ)さんが森永ミルク中毒事後調査の会の中心メンバーの一人であり、日本人のアーユルヴェーダ医師第1号であることを付記しておきます。

この頃のアーユルヴェーダ研究会の月例研究会ではインド哲学(山口恵照先生)、仏教哲学(中村元先生)アーユルヴェーダ入門(UK・クリシュナ先生、イナムラ・ヒロエ・シャルマ先生)などを学ぶ機会を得ました。むずかしかったがおもしろかったです。

こういう理論的な研究会ではあきたらない、もっとアーユルヴェーダの具体化、実践化をとの声が強まる中での事務局東京移転は時宜にかなったものであったと思い、ほっとしたのが実感でした。

大阪大学医学部衛生学の前任教授で丸山博の恩師である梶原三郎先生(18951986)についての次の一文を読むと、大学在任中の丸山博の、アーユルヴェーダ研究会をふくむ多岐にわたる研究会の設立、しかも、どれもが研究者と実践者の提携方式をとっていることの意味がわかります。

「梶原三郎先生は大阪における『労働安全衛生大学』10年の経験から、『生命科学センター』(仮称)を大阪に国立でつくるのが夢でした。「『生命科学センター』構想の基本原則はあらゆる分野の科学成果を総合すると同時に、科学の限界を知らせることです。

公害問題からはじまって、自然科学を経済学の中で見直す。人口問題から経済学を洗い直す。万葉時代から日本人の生命観を洗い直す。現実の個人の生命について自然科学、哲学、宗教を組み込んでの総合的探求をする。地球上の生命現象の源としての労働の位置付けを明らかにする。労働と生命をめぐって、このような広く深く厳しい追及をつづけることと、その追及を研究者と労働者・市民の集団的・実践的な作業にゆだねることこそ『生命科学センター』設立の目的であるわけです。老いたる衛生学者のいだくこの青年のごとき情熱には、周囲におる私たちはふるいたたされる思いです。何としてでも実現したいと思います。」「私の会った人-----命にいのちかけた人」(1978年朝日新聞)の中の「21世紀の適塾」と題しての小文です。(『丸山博著作集3 食生活の基本を問う』所収、農文協刊)

 

〈 しかし それだけではない 〉

‘起承転結’でいえば、アーユルヴェーダ研究会の初期(起)アーユルヴェーダの理論的研究の時期から、東京事務局の時期以降の(承)アーユルヴェーダの具体的実践化、普及の先頭に立ち続けてこられた幡井勉先生は、どのような(転)を展望されていたのでしょうか。

すでにお気づきの方もおられるでしょうが、本稿のタイトルの「しかし それだけではない。----幽霊と語る」は、ドキュメンタリー映画「しかし それだけではない。----加藤周一 幽霊と語る」の借用です。加藤周一氏(19192008)は内科学、血液学の医師で、東大病院で東京大空襲の負傷者治療にあたり、GHQのもと第1次調査医師団の一員として原爆投下直後の広島に入っています。その後、文学評論に転じ、知の巨人といわれ、2008年12月に亡くなりました。青年医師として戦争を体験した幡井勉先生と同時代人です。

この映画の製作者桜井 均氏(元NHKプロデューサー)は、ここでの幽霊はphantomghostではなく、精神spiritespritのことだと言っています。

加藤周一氏は映画の中で「すべての幽霊は歳をとらないわけですから、だから、意見も変わらないわけ。それで、意見の変わらない立場からね、つまり、やたらに変わらない立場から、変わっていく世界、世情を、その世の中の有様を眺めて、分析して、理解するということが重要だと思うんですね。そうでないと本当の批判にならないわけ。」と言っています。加藤周一氏が幽霊と語っているようであり、加藤周一氏の幽霊と映画を観る者が語ってもいます。

はたして、丸山博と幡井勉先生の幽霊は、日本におけるアーユルヴェーダの研究と実践の現状をどう見て、どういう展望を語っているのでしょうか。

「しかし それだけではない。」と言っているのは丸山博、幡井勉先生か、これを読まれた方か、または書いた私本人か、そのすべてであるかもしれません。

アーユルヴェーダ研究会の初期のことについての執筆の依頼を受け、到底果たし得ようがない課題を書くに当たって、丸山博と幡井勉先生の幽霊に語りかけ、教えを請うことにしました。あしからず、ご了承ください。

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